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えすこら記録

日本語教師が見る日常の感想などです。

いち日本語教師が中学生に国際協力について話した結果

 

 

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中学生にお話してきました。

 

JICAでの「社会貢献経験者」ということで、「道徳」の時間で話してほしいとお声掛けいただきました。ご担当いただいたのは、民間の企業で海外駐在も経験されていた方で

「子供たちに『正解はない世界』で『自分で考えながら生きてほしい』」

という強い思いを持たれていました。そのために、

「国際社会の現状を踏まえつつ、日本で増える外国人と日本の国際化の中で、自分の人生をどう生きていくか自分で考えるきっかけになる」ことを目標にお話することになりました。

対象は都内私立の進学校に通う中学2年生。200名弱の生徒を2回に分けて行いました。私としては、今の中学生が「国際」とか「社会貢献」というワードについてどう考えているのか、どう感じているのかを知ることができるいい機会になると思い、わくわくしながら行きました。

 

 

 

洗礼の一喝

私は今まで小学校で話したことが何度かあり、子供たちはブラジルや外国人に対してとても興味を持って、聴いてくれていた経験がありました。また大学時代には何十という中学生を見てきましたし、ブラジルでもこの世代の生徒を主に受け持っていましたから、「久しぶりだな♪」と胸を弾ませていました。そんな中、生徒たちが筆記用具を片手に、和気藹々ぞろぞろと入ってきました。思春期の可能性に溢れた、明るく、青い良い雰囲気です。

うんうん、いいね、楽しそう!」なんて、思っていたのもつかの間、チャイムがなった次の瞬間一気に雰囲気が変わりました。

 

「おい!静かにしろ!」

 

先生の一喝です。

会場は一瞬にして水を打ったように静かになりました。空気も完全に「授業」になってしまいました。

 

私の経験から、「授業」になってしまうと、生徒は「受身」になります。そうなるともう、「ただ耳で聞く」だけになってしまいます。

 

「ああ、やっちまった。」

 

正直そう思いました。案の定、目は空を向き、うつむいて寝始める生徒も出始めました。空気は最悪でした。

 

 

中学生は考えることができない??

何とかしようと、話ながら雰囲気を変えてきたある瞬間、気になる言葉が耳に入ってきました。「考えたこともないから、よくわからない」という声です。

私はみんながどう思っているのか知りたかったので、いくつか質問をしながら進めていたのですが、その質問の最中でした。

 

「国際問題ってどんなものがありますか?」

 

別に正解とか答えはありません。自分でどんなものがそうだと思うのか。という話なのですが、これを投げたとき、「え?なに??わからない…」とコソコソ声が聞こえました。真剣に考えているのです。でも、出ないんです。「わからないわからない」と、またどこからか聞こえてきました。ちょっとして、1人が「北朝鮮とか?」と手を上げてくれました。

その他の質問でも同じ感じでした。自分の意見とか考えが薄いのかなと感じました。同時に、自分が中学生のときもきっとそうだったのかななどと思いながら、でもどこかしっくりきませんでした。そんなモヤモヤを抱えながら、盛り上がりもそこそこに一回目が終わりました。

生徒も、よく分からなかったという顔をして会場を出て行きました。一生懸命準備したものが、全く響かなかった。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 

 

反省を生かして

これは反省すべきと思い、休み時間に自分で振り返りをし、対策を講じました。そして、生徒が会場に1回目と同じように入り、みんながそろったのを見計らって、先に手を打ちました。

 

「今日は授業じゃないので、私が話しているあいだ、自由に隣や周りの人と話していいですよ。自由にやりましょ。」

 

私がそう言った瞬間です。驚くことが起こりました。会場中から、どこからともなく「はぁ」と力を抜く声が聞こえたのです。私の目の前の男の子は文字通り「肩をおろして」いました。

そこから「同じ話か?!」と疑うほど、雰囲気がよくなったのです。

私が話している間、どこかで話し声が聞こえます。先ほどと違い、堂々と話しています。そしてその内容も、先ほどと違い、「わからない」ではなく、私の話に対して「~だよね」といった意見なのです!

会場は基本、誰かがどこかで話している状態です。ちょっとザワついているくらいです。そして、びっくりする変化が起こりました。

 

質問にどんどん答えが返ってくるようになったのです。

 

1回目と同様の「国際問題」についての質問では「紛争」や「食糧問題」といった意見が出てきました。同じ学校の、同じ学年の、同じ内容です。もちろん、2回目の方が良くなるのは当然なのですが、でも、それでは説明できないくらいの変化だったのです。

 

 

 

何が違ったのか

最も大きく違ったのは雰囲気でした。1回目、先生の一喝以後、最後まで抜けなかったのは、「ピリッ」とした雰囲気。これはどんなに空気を緩めても根底に流れる空気として会場中に漂い、一定以上緩くなることはなりませんでした。

反面、2回目は、その強制を排除しました。静かにしなくて良いということは、聞かなくてもいいということです。その前提を作ると、彼らが聞くときは「聞かされている」のではなく「聞こうと思って」聞くことになります。その自主性ができた瞬間に、考えることができるようになったのではないかと思いました。

 

 

 

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科学的な因果関係があるかは知りませんし、たった一回のことです。ですが、ここまで変わるか!というくらい変わったのです。衝撃でした。私は、「自分で、自分の人生を、責任を持って良いものにする」上で大切なことは「自主性」だと思っています。人から言われたことをその通りやる人生は、他者の人生を生きることです。

本の学校という、強制の多い空間でも、ちょっとした工夫でここまで変わると思いました。

もちろん、「人の話はちゃんと聞こう」という、日本式「しつけ」がなされているからこそ、今回のような結果になったのだと思います。それも分かりますが、敢えてジレンマを抱えようと思います。「しつけ」や「教育」について、きっと今までとは違う形の可能性があるのではないでしょうか。

 

 

がんばれ中学生!!

今回分かったのは、「日本の中学生はちゃんと考えることがでる」ということ、そして「それを引き出すも潰すも、教室を引っ張る教師に大きくよる」ということです。

考えなくてもいい空間に長く浸かっていれば、いずれ考えることもできなくなるでしょうし、私を含め多くの方がそういう環境で育ったのだと思います。でも、私は彼/彼女らの可能性を信じたい。何にでもなれる、何でもできると知ったら、無限大です。そんな風に思える社会を、私たち大人は作っていかなければならないと強く感じました。

 

 

また秋に別の学校に訪問予定があります。そのときまたご報告いたします!

最後までお読みくださり、ありがとうございました!