いち日本語教師が中学生に国際協力について話した結果
【チャレンジ】
— カズマ🇯🇵🇧🇷えすこら(日本語教師) (@esukola_jp) 2019年7月17日
今日は中学校で200人の場に登壇…
内容は
「国際問題とひとりひとりが出来ること」
国際社会のなかどう生きていけばいいのか、日本語教師の目線で、これからの未来の子供達に伝えてきます。
ううううう緊張!!!!😆😆😆😆
JICAでの「社会貢献経験者」ということで、「道徳」の時間で話してほしいとお声掛けいただきました。ご担当いただいたのは、民間の企業で海外駐在も経験されていた方で
「子供たちに『正解はない世界』で『自分で考えながら生きてほしい』」
という強い思いを持たれていました。そのために、
「国際社会の現状を踏まえつつ、日本で増える外国人と日本の国際化の中で、自分の人生をどう生きていくか自分で考えるきっかけになる」ことを目標にお話することになりました。
対象は都内私立の進学校に通う中学2年生。200名弱の生徒を2回に分けて行いました。私としては、今の中学生が「国際」とか「社会貢献」というワードについてどう考えているのか、どう感じているのかを知ることができるいい機会になると思い、わくわくしながら行きました。
洗礼の一喝
私は今まで小学校で話したことが何度かあり、子供たちはブラジルや外国人に対してとても興味を持って、聴いてくれていた経験がありました。また大学時代には何十という中学生を見てきましたし、ブラジルでもこの世代の生徒を主に受け持っていましたから、「久しぶりだな♪」と胸を弾ませていました。そんな中、生徒たちが筆記用具を片手に、和気藹々ぞろぞろと入ってきました。思春期の可能性に溢れた、明るく、青い良い雰囲気です。
「うんうん、いいね、楽しそう!」なんて、思っていたのもつかの間、チャイムがなった次の瞬間一気に雰囲気が変わりました。
「おい!静かにしろ!」
先生の一喝です。
会場は一瞬にして水を打ったように静かになりました。空気も完全に「授業」になってしまいました。
私の経験から、「授業」になってしまうと、生徒は「受身」になります。そうなるともう、「ただ耳で聞く」だけになってしまいます。
「ああ、やっちまった。」
正直そう思いました。案の定、目は空を向き、うつむいて寝始める生徒も出始めました。空気は最悪でした。
中学生は考えることができない??
何とかしようと、話ながら雰囲気を変えてきたある瞬間、気になる言葉が耳に入ってきました。「考えたこともないから、よくわからない」という声です。
私はみんながどう思っているのか知りたかったので、いくつか質問をしながら進めていたのですが、その質問の最中でした。
「国際問題ってどんなものがありますか?」
別に正解とか答えはありません。自分でどんなものがそうだと思うのか。という話なのですが、これを投げたとき、「え?なに??わからない…」とコソコソ声が聞こえました。真剣に考えているのです。でも、出ないんです。「わからないわからない」と、またどこからか聞こえてきました。ちょっとして、1人が「北朝鮮とか?」と手を上げてくれました。
その他の質問でも同じ感じでした。自分の意見とか考えが薄いのかなと感じました。同時に、自分が中学生のときもきっとそうだったのかななどと思いながら、でもどこかしっくりきませんでした。そんなモヤモヤを抱えながら、盛り上がりもそこそこに一回目が終わりました。
生徒も、よく分からなかったという顔をして会場を出て行きました。一生懸命準備したものが、全く響かなかった。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
反省を生かして
これは反省すべきと思い、休み時間に自分で振り返りをし、対策を講じました。そして、生徒が会場に1回目と同じように入り、みんながそろったのを見計らって、先に手を打ちました。
「今日は授業じゃないので、私が話しているあいだ、自由に隣や周りの人と話していいですよ。自由にやりましょ。」
私がそう言った瞬間です。驚くことが起こりました。会場中から、どこからともなく「はぁ」と力を抜く声が聞こえたのです。私の目の前の男の子は文字通り「肩をおろして」いました。
そこから「同じ話か?!」と疑うほど、雰囲気がよくなったのです。
私が話している間、どこかで話し声が聞こえます。先ほどと違い、堂々と話しています。そしてその内容も、先ほどと違い、「わからない」ではなく、私の話に対して「~だよね」といった意見なのです!
会場は基本、誰かがどこかで話している状態です。ちょっとザワついているくらいです。そして、びっくりする変化が起こりました。
質問にどんどん答えが返ってくるようになったのです。
1回目と同様の「国際問題」についての質問では「紛争」や「食糧問題」といった意見が出てきました。同じ学校の、同じ学年の、同じ内容です。もちろん、2回目の方が良くなるのは当然なのですが、でも、それでは説明できないくらいの変化だったのです。
何が違ったのか
最も大きく違ったのは雰囲気でした。1回目、先生の一喝以後、最後まで抜けなかったのは、「ピリッ」とした雰囲気。これはどんなに空気を緩めても根底に流れる空気として会場中に漂い、一定以上緩くなることはなりませんでした。
反面、2回目は、その強制を排除しました。静かにしなくて良いということは、聞かなくてもいいということです。その前提を作ると、彼らが聞くときは「聞かされている」のではなく「聞こうと思って」聞くことになります。その自主性ができた瞬間に、考えることができるようになったのではないかと思いました。
科学的な因果関係があるかは知りませんし、たった一回のことです。ですが、ここまで変わるか!というくらい変わったのです。衝撃でした。私は、「自分で、自分の人生を、責任を持って良いものにする」上で大切なことは「自主性」だと思っています。人から言われたことをその通りやる人生は、他者の人生を生きることです。
日本の学校という、強制の多い空間でも、ちょっとした工夫でここまで変わると思いました。
もちろん、「人の話はちゃんと聞こう」という、日本式「しつけ」がなされているからこそ、今回のような結果になったのだと思います。それも分かりますが、敢えてジレンマを抱えようと思います。「しつけ」や「教育」について、きっと今までとは違う形の可能性があるのではないでしょうか。
がんばれ中学生!!
今回分かったのは、「日本の中学生はちゃんと考えることがでる」ということ、そして「それを引き出すも潰すも、教室を引っ張る教師に大きくよる」ということです。
考えなくてもいい空間に長く浸かっていれば、いずれ考えることもできなくなるでしょうし、私を含め多くの方がそういう環境で育ったのだと思います。でも、私は彼/彼女らの可能性を信じたい。何にでもなれる、何でもできると知ったら、無限大です。そんな風に思える社会を、私たち大人は作っていかなければならないと強く感じました。
また秋に別の学校に訪問予定があります。そのときまたご報告いたします!
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
日本語教育と英語教育
最近、日本語だけでなく、日本の児童に対する教育にも踏み出そうと、いろいろ調べています。
私の教師人生は大学生のときに始まりました。小中学生を対象にした学習塾で英語講師として勤務していました。そのときの経験が、実は今にかなり役立っていることを感じていましたが、それが「どんなものか」や「なぜか」についてはあまり考えませんでした。
ところが最近、私の中の視点が教育全般に向いたことで、視野が広がったのでしょうか、自然と考えをめぐらすようになりましたので、簡単にまとめたいと思います。
英語教育はよく考えられている
国際社会の中で英語ができることで活躍の幅が広がるということから、日本では、いまや小学校でも英語の学習についてよく話されています。様々な教材が本屋に立ち並び、電車の中刷り広告では様々なスクールを入れ替わり立ち目にします。最近ではインターネットでも安価で英会話をすることができ(私も利用者のひとりです)、英語の仕方は本当に多いですね。
本やスクールのウェブサイトを見ると、どれも本当によく考えられていると思います。日本語教育でも多くの研究がなされ、新しい学習方法や教授方法が日々更新されています。
その両方がもし使えるなら、日本語教師として(もちろん英語教師も)材料がもの凄く増えて、ウハウハになるのでは!と思い、検索してみると、、、
やっぱり前から考えられていた
興味深いことに1975年には既に「外国語としての日本語教育」を「英語教育との共通点と相違点」という副題で考察されていました(1985岡)。
その論文では
英語教育と、比較すると対象となる言語(target language)こそ違うものの、外国語教育という大きな視点から見た場合、特に、教授法において共通点がかなり多い。その基本的な教授原理は、外国語教育としての普遍性があり、対象言語が異なっても適用が可能である。
と書かれていました。
いけそうです。
そう考えると、現在、日本語教育ではオートノミーやアクティブラーニングなどが注目されていますが、これは英語にも言えることで、事実フィンランドでは既に外国語としての英語教育にふんだんに盛り込まれています。
「外国語」は根本いっしょ!
つまり、言語は違えど、ある言語を外国語として学ぶ際、ある種共通するなんらかの脳の働きがあるのではないかと思います(このあたりは言語学を掘り下げる必要がありますが、それは別の機会にします)。
また更にいうと、私はその「なんらかの働き」は人によって違うと思っています。Aさんがうまくいったからといって、同じ方法がBさんに通用するとは限りらないということです。
だからこそ、教師として、双方の研究には目を向けておくべきだろうと最近感じました。引きだしの多い教師にならなければ!!自省です。
本屋に行った時に立ち寄るコーナーがまた増えそうです。
参考文献
岡秀夫,1975『外国語としての日本語教育-英語教育との共通点と相違点-』,中国地区英語教育学会研究紀要 5 巻, pp19
12年振りのTOEIC挑戦「見せてもらおうか、オートノミーの性能とやらを」
言語って使わないとどんどん忘れていきますよね。
— カズマ🐳えすこら(日本語教師) (@esukola_jp) 2019年6月10日
どのくらいのレベルにいったら忘れないんだろう。
英語を話そうとするとポルトガル語が出てきて混ざりまくるし…。
というわけで、自分に喝を入れるため12年ぶりにTOEIC申し込みました。
7月まで勉強する!
学生の気持ちもわかって一石二鳥!かな。
12年前、大学生のとき単位欲しさに受験してからだいぶ経ちました。
ブラジルでは英語は全く使用せず、すっかり自分の中の「外国語」=「ポルトガル語」になってしまいました。
最近日本のALTの方に教える機会もあり、どうせなら英語もまた勉強したいなと思っていました。ヘタレな私は目標とかがないと速攻で挫折するので、なにか目標はと考えていたのですが、ぐずぐずと「やろうかな」「どうしようかな」「でも面倒くさいな」と考えに考えて行動せずに早半年。もうこのままだと絶対受けないと思い、飛び込むことにします。
今回の目的は次の2点です。
- 教育関係(言語)で食べていくのなら、常に挑戦する姿勢を持つ
- (自分にとって)より効率の良い外国語学習方法を模索する
特に、外国語の勉強法の模索は注目していきたいところです。
フィンランドの英語勉強法も調べたところで、実践で使えるところは実験してみたいと思います。どうせ自分でやるのですから「見せてもらおうか、オートノミーの性能とやらを」って感じです。
すぐ落ちるのでモチベーションには期待しません。
このブログとツイッターで己を励ましながらやっていきます!
どこまで行けるかはおいといて、取り敢えず始めてみます。
以上、決意表明でした!!!!
フィンランドのオートノミーについて調べてみた
日本語教育でも「教えない」とか「自律性(オートノミー)」という言葉をよく耳にするようになりました。最初は「ふうん、そんなのがあるのか」程度の気持ちでしたが、自分の英語学習や日本語教育を振り返ると、「その要素があるのでは?」という思いになってきました。
自分で教育をやりたいと思ったきっかけの一つでもあります。「自分で考え、行動し、いろんな人に助けられながら目標を成す」のは、これからの時代でも絶対必用な知恵なんじゃないだろうかと考えるようになりました。
そこで、オートノミーの先進国であるフィンランドは、どんな教育をしているのか興味が湧き、国会図書館に籠もって調べましたので、まとめたいと思います。
オートノミーって?
自律性、つまり「自分」を「律する」力でしょう。鳴門教育大学の資料(1)では「自己の学習を管理する能力」あるいは「客観的視点、主体的振り返り、決断し、自主的活動をする能力」とあり、
思い立って → 実行(振返り)して → 達成
という、最初から最後までを自分で責任をもって行える能力ともいえると思います。どんな形であれ、「自分で思い立って」「自分で管理して」「達成する」能力であると考えられます。
フィンランド人は英語上手
フィンランドは、少し前日本でも、その独特の教育方法で話題になりましたが、外国語(英語)教育にも定評があります。フィンランド語は日本語同様、英語とは文法や単語のルーツ(語族)が異なります。更に英語の授業数は日本の三分の二しかないそうです(1)。またフィンランドには塾はありません。それでも、2008年にはTOEFL(iBT)スコアは世界で8位にランキングされています(2)。なぜでしょうか。
フィンランドでの外国語(英語)教育
鳴門教育大(1)と富山大(3)の資料を読むと、なぜフィンランドでは英語ができる学生が多いのかの理由を垣間見ることができました。
フィンランドの教科書は副教材をあわせると、日本よりもかなり分量が多いのが特徴です。そして、クロスワードとか、イラストと文字を結ぶとか、宿題も一人で面白くできるように工夫が凝らされています。更に宿題の活用の仕方が面白い。
- 宿題でその日の復習
- 授業で宿題の確認(理解確認)
- 次の問をペアで行う
という、「宿題が次の日の予習」にもなっているわけです。学生からすると、自分でやった内容が、次の日の理解を深めている訳ですから、知らず知らずのうちに「自分で良復習する」力が養われているではないでしょうか(宿題については、家庭の理解も大きく関わっているようで、親の意識も影響しているでしょう)。
また、教科書について、私が面白いと思ったのは「質問・設問」です。常に「意見と根拠」”What do you think, and why?” は自分の意見を英語で述べる訓練であると察せます。これも「自分で考えたこと」を「自分の言葉で述べる」練習でしょう。
振返りの重要性
日本の日本語教育でもDo not 三原則(4)「教えない」「決めない」「評価しない」と、今までとは違う価値観が注目され始めていますが、フィンランドではもうそれが教育現場で使われているようです。
フィンランドでは、授業後に「どれだけできたか」「この表現をどれだけ使えるようになったか」などを学生自身に評価することで、自分の評価にも責任をもたせています(1)。
私はこの点がかなり大きいかと感じています。その日に何を学び、どこまで到達したのかを振返る。すると、「じゃあ次はこうしよう」とか「こういう分野が苦手だな」とか「良い教材あるかな」という思考になります。
「振り返って、反省して、改善策を考案する」流れは、PDCAサイクルとも比較できます。これは外国語習得だけでなく、生活からビジネスにも通用する思考回路です。この訓練を小学生のうちから日々行えるというのは、なんとも羨ましい限りです。
日本語教育にも通用するか
今回調べたフィンランドの教育は、小学校から高校までの教育で、言語能力以外の「自律性」、つまり「自分で考えて叶える力」を養うことがかなり考えられていると感じました。もちろん学校ですから、テストはありますし、大学受験は日本のような試験がありますから、日本のDo not 三原則等(5)とは異なる点は見られました。そして日本の日本語学校では、多くは18歳以上ですから、その性格も少し変わってくると思います。ですが、今後日本語教育でのオートノミーを述べるにあたり、これらの知識も大いに役立ってくると思いました。特に「振返り」については実践ですぐ使えそうな気がしてなりません。
参考文献
論文のページの記録を失念しました。すみません!!
(1)伊東治己,高田智子他(2015)『Autonomy育成の観点からのフィンランド英語教科書の分析』日本教科教育学会誌
(2)米崎里、伊東治己(2010)『フィンランドの小学校の英語教科書分析-Autonomyの視点から-』小学校英語教育学会紀要
(3)田畠康史, 増田美奈(2018)『日本の小学校外国語活動副読本とフィンランドの基礎学校英語教科書の比較と検討 : 英語学習開始段階に着目して』,教育実践研究 : 富山大学人間発達科学研究実践総合センター紀要
(4)奥田純子(2012)「日本語学習アドバイジング-その深さと大切さ-」早稲田大学日本語教育学会春季大会資料http://gsjal.jp/wnkg/dat/2012spring/120324_kouen_PPT.pdf
(5)木下直子,トンプソン美恵子他(2018)『日本語学習アドバイザーの育成に向けた実践的アプローチの効果の検討-自律的な学習者を支える質問力を中心に-』早稲田日本語教育実践研究 第 6 号,pp78
起業の決意したら、いろんな視点が変わってきた話
決めた!起業!!
— カズマ🐳えすこら(日本語教師) (@esukola_jp) 2019年6月3日
知識も経験もないけど!!!
と、突如決意してみました。
その経緯を簡単に記録しておきます。
経緯
- 大学4年で、大手企業のインターンシップで「ここに就職したら死ぬとき絶対後悔する」と確信し、就活をやめる。
- 縁あってベンチャー企業に就職も合わず退社。
- ブラジルで2年のJICA活動。あまりに自由な環境で価値観が180度変わってしまう。
- 帰国後再び望みを持って地方のベンチャー企業に就職し、それなりに働くが、家族が病気になり帰省を強いられる。
- 細々やっていた個人レッスンだけしている。
- 思い切って好きなことを自由にやってみようかしら。 ← いまここ
元々、性格上指図されたり言われてやることが嫌いでした。でも、やっぱり食べていかなくてはいけないし、何よりできるビジネスマンって憧れで、2度チャレンジしました。
どちらもとてもいい職場で、風通しもいいし、仕事もやりがいがありました。でもどこかにある違和感が喉に刺さった骨のようにチクチクと胸を締めていました。家族の病気を機に退職を決意、帰省することになったのですが、前職の環境がよかったので、新たに職場を見つけるのも気が進まず、今まで細々とやっていた個人レッスンを細々としていました。
なぜ起業するか
そんな中、うっすらと、「起業」という文字が脳裏にチラつき始めました。簡単にいうと、「自分の人生を責任を持って生きたい」と思ったのです。どうせ1度しかない人生、失敗してもなんにしても、「自分のために生きたい」と思いました。
なにをするか
「何がしたいのかな」と帰国後ずっと考えてきました。でも今までただのレールに乗っていた私は自発的に「したいこと」なんて思い浮かびませんでした。やっと最近、うっすらと、次のような場があったらいいなと思うようになりました。
- 勉強嫌いな(わからない、できない)子供が楽しめる空間
- 生きる力、考える力を養える場
- 「夢や願いは叶う」と感じられる場
- 子供だけじゃなく、夢を語り、その実現に向けた動きができる場
どうするか
どう実現するかが大きな問題です。でも不思議と「やろう」と思ってから、今まで気にもとめなかった本や情報が目に入ってくるようになりました。そこで昨日出会った本が衝撃でした。
なんだこれーーー!!
— カズマ🐳えすこら(日本語教師) (@esukola_jp) 2019年6月6日
衝撃!!
本当に衝撃!
日本語教師にも通用する、というか、日本語教師こそ読むべき本では?
これからの自分の人生。自分でしか責任取れないんだから、自分で生きていこうという、なんかもう分からんが感動!#しょぼい起業で生きていく#しょぼい喫茶店 pic.twitter.com/MG2sufDF5e
費用をかけず、「しょぼい起業」をするというのです。銀行の融資も考えていた私には晴天の霹靂。この本は本当にいいきっかけになりそうです。
意識を変えただけで、目に入ってくる情報も変わって、有益な情報を得られるんだと思いました。「なんとかなるかも知れない」という一抹の望みを感じられた一日でした。
今はちょうどここまで。
本当に自分なんかにできるのか、正直不安でいっぱいです。
でも、自分の人生に責任をもって、幸せに生きたい。
怖いけど、やるしかない!
緊張しない方法
日本語教師に限らず、皆さんは緊張するときってありませんか。きっとこの記事を読んでくださっている方は、そういう経験をお持ちだと思います。
よく、「集団授業なんてすごい、緊張してムリだもん」とか「どうやったら人前で話すときに緊張しないかな」とか「面接時にいつも緊張してしまって上手く話せないんだけど、どうしたらいい?」という質問を受けます。
なので今回は、私がどのようにそれを解決しているのかをまとめてみました。
そもそも、緊張するときって、どんなときでしょうか。
みんなの前で発表したり、入試などの試験だったり、出世がかかっているプレゼンだったりと、様々あると思います。本番直前には心臓が張り裂けそうになって、会場に入ったら頭が真っ白になったり。ありますよね。
私はサラリーマン時代、とても小さい会社でしたので、なんでもやらなければなりませんでした。大抵の仕事はいいのですが、その中で最も嫌だったのは「飛び込み営業」でした。
知らないお店に入って商品を扱ってくれないか話すわけです。今でもその初日のことを覚えています。ドキドキして手汗が異常に出て、店に入れず周りをうろうろ、まさに不審者です。恥ずかしい話ですが、本当に緊張しました。
そんな状態でも、1ヶ月後には地元の有力な商店契約を結んだり、新規開拓も普通にこなせるようになりました。
そんなこんなで私は今は日本語教師です。学生時代から教壇に立っていたので、自分にとっては慣れたことなのですが、それでも、緊張する場面があります。
それは「初めてのクラス」です。そこで、営業での経験と私が普段「緊張したときにしていること」
をご紹介いたします。
緊張する場面に臨む前に
前述した通り、私は日本語教師ですが、初回のクラスでは毎回緊張します。また、飛び込み営業で大変緊張しました。そんな緊張する場面の時、あることをします。 それは、
準備
です。
「いやいや、そんなん当たり前やんけ。」
と思われるかもしれません。
日本語学校において言えば、普段の授業でもちゃんと準備をします。でも初回だけはちょっと色が異なります。
いつもの授業はもう勝手知った学生たちですから、クラスごとの特徴がわかります。
すると、「このクラスはこうやって、こういう時にはこういう話をしよう。」と、ある程度予測の元に準備をすることができます。しかし、初めてのクラスではその予測ができません。
飛び込み営業もそうです。全く知らないお店に行って、全く知らない人に商品を提案しなければなりません。開拓後は、もう顔見知りですから、どうやったらオーナーや店長のことを思い浮かべながら、性格などを考慮したうえで提案を考えることができます。
また、入学試験や入社試験、アルバイトの面接など、未知の誰かに評価される時も大変緊張しますよね。
そんな緊張する所に身を置く際、私が必ずすることは
「引き出しを多く用意しておく」
ことです。「引き出し」というのは、言い換えるなら様々な「不安」に対する「対策」です。
不安になるのはいいこと!!
私は、不安になるのはいいことだと思っています。不安になるというのは、それだけ「リスクが目についている」からです。「ああなったらどうしよう」「こうなったら嫌だな」といった不安は、
「ああなるかも知れない」とか「こうなる恐れがある」ということを示しています。
そういった不安が緊張へと繋がるのです。だったら、その「対策」を考えればいいのです。
「場がしらけちゃったらどうしよう」 → 「場がしらけたらこういう話をしよう」
「話を聞いてくれなかったらどうしよう」 → 「注目させるためにこういう指示の仕方をしてみよう」
営業
「怒鳴られたらどうしよう」 → 「お店の情報を調べて、どんなところにこだわりがあるか、それを損ねないように話そう」「押売りと感じさせないように、こんな話し方をしよう」
「断られたらどうしよう」 → 「的確な提案をするために、お店の課題やニーズを聞き出せる尋ね方を考えよう」「何パターンかアプローチを用意しよう」
このように、「不安」な気持ちから、「対策」を練ります。
それを書き出したり、実際に家で練習します。実際に練習するのはとても有効です。出来るならば声に出します。すると、「良いと思ったけどこれじゃあダメだな」とか「もっとこういう言い方の方がいいな」とかが分かります。
私は更に、家の人に聞いてもらったりして、アドバイスをもらうこともあります。とにかく、練習です。その緊張するシーンと、なるべく同じ状態で行うのがベストです。なので私は練習をする際は立って、会場やお店を想像しながら、ジェスチャーなんかもつけたり、本番さながらにやります。入試でいうところの、模試にあたるのでしょうか。似た環境、似た緊張感の中で練習するということです。
この「引き出し」(対策の数)が多ければ多いほど、色々な状況に対処ができるのです。
もうこの準備さえしっかりできていれば、99%は完了です。
本番前にやること
「さあ、対策も考えた、準備もした、練習だって体に染み付くほどした!ああ、でもあと数時間後には…緊張してきた…」ってなります。その準備が入念なほど、緊張してしまうものです。
でも、よくやったんです。ちゃんと考えて準備したんです。だからこそ、信じてあげてください。
残りの1%、本番前は
「自分を信じて何も考えない」
無です。無。それだけやったんですから、あとは野となれ山となれです。
考えてみてください。グルグル考えてこれから起こることが良くなりますか?考えることで落ち着いて本番に臨めますか?備えが万端なら、後は実行するだけなんです。そこに余計なグルグルは必要ありません。
「そう言ったって、考えちゃうよ!」
「どんなことをしても緊張しちゃうよ!」
ごもっとも。
「緊張を殺そうとすればするほど、余計に緊張してしまう」ものです。
じゃあ、どうやって無になるのか。大切なのは、緊張を抑えようとしないことです。その緊張も受け入れて、全身を無にします。私が実践している方法は次の通りです。
1.目を閉じる
2.周りの音を聞く
3.肌の感覚を感じる
細かくみていきましょう。
1. 目を閉じる
まずは目を閉じます。周りには色々なものがあります。それらが視覚情報として入ってきてきてしまうと、集中するにできません。まずは視覚情報を断ちます。
2.周りの音を聞く
皆さんの今いるところにはどんな音がありますか。車の音や話し声、電車の中だったらダンダンという線路を走る音。結構色々な音が聞こえます。それらに集中してください。
この時、大切なのは「連想しない」ことです。
例えば、「車の音がする」→ 「どんな車かな」 → 「こんな車かっこいいよな」 → 「車欲しいな」→ 「車買ったら…」
のように、私たちの脳は勝手に連想を始めてしまいます。でも、これでは脳は結局グルグルの状態です。グルグルの状態だと、不安なことも浮かび上がりやすくなります。
ですから、「車の音だ」で終わりにしてください。コツは、「車」「自転車」「飛行機」「風」
というように、単語で思い浮かべては次の単語にいくようにするといいでしょう。
3.肌の感覚に集中する
さすがに音ばかり拾っていると続きません。そのうち連想してしまい、不安になります。もう飽きたなという時、気が散りそうになったら、次は肌です。触覚といってもいいですね。今あなたの肌に触れているものに集中します。
どんな物に触れていますか。服やつり革、風が当たっているかもしれませんね。
感覚を研ぎ澄まして、どんな感覚があるかを感じます。
今度は、単語のような言葉ではなく、ただ感じるだけです(慣れないうちは「風」とか「服」のように単語を思い浮かべてもいいかもしれません)。
この時、結構な緊張状態にあると、自分の心臓の鼓動も感じます。ですが、決して抑えようとと考えてはいけません。心臓のドキドキを感じるだけです。緊張しているのですから、鼓動を感じるのは普通です。抑える必要はありません。ただ、心臓を感じるだけです。
これが無の状態です。あなたの脳は「感覚」に集中して「思考」しない状態です。この状態だと、緊張していても本番に臨みやすくなります。
どうしても連想してしまうとき
そうは言っても色々考えてしまうのが私たちの脳です。どうしても緊張が強く、集中できない時は次のようにしてみてください。
1.目は閉じたままにする
2.思い浮かんでいる言葉を塊としてイメージする(ボールのような)
3.言葉の塊を小さな気球に乗せるようなイメージをする
4.その気球を空に飛ばしてやる
5.言葉が思い浮かぶ度に空に飛ばしてやる
これは連想をストップするやり方で、以前NHKの「ためしてガッテン」という番組で取り上げられていた方法です(番組では葉っぱに乗せて川に流すイメージを紹介していました)。慣れてくるとイメージをしなくても「感覚」に集中することができます。よく緊張してしまう人や、不安になってしまう人は、日頃この練習をしてみるといいでしょう。
私はよくこの「集中」を、会場や学校に向かう電車の中でしています。
そして電車を降りた後も、目を閉じていた時と同じように、感覚だけに集中して歩きます。
会場でも同じです。発表や授業の準備を淡々とします。その間、心臓が更にドキドキなってもそれは当然のこととして、ドキドキさせておきます。
最後の最後は気合です。(笑)
「えいやっ!!」
と登壇します。あとは野となれ山となれの精神です。
失敗しても気にしない
どんなに準備をしていても、コケることはあります。「え、何この状況」ということは普通にあります。俗に言う失敗です。それはもう超落ち込みますよね、あれだけ準備したのに、みたいな。
落ち込むことは自然なことです。準備期間が長ければ長いほど落ち込みます。
私はメンタルがガラスなので、結構凹みます。そして一通り落ち込んだら、「引き出しが一つ増えた」と考えるようにしています。
実際、予測できなかった状況が起きた訳です。自分の中に引き出しがなかっただけです。次回はその引き出しも用意すればいいのです。
別に失敗しても、死にません。生きています。いいのです。むしろ、
「あそこは成功したぞ!」と。
更に言えば
「緊張状態のなかよく飛び込んだ!それだけで俺凄いじゃん!」なのです。
頑張ったんですから、自分を褒めてあげましょう。「私はできた」と。
それが重なったら、どんどん経験値が溜ります。そのうち、「緊張しないの?」とか言われたりします。いや、実際緊張しているんですけどね、人の目にはそう映ったりするのでしょう。
緊張は期待の裏返しでもあります。その期待が大きければ大きいほど緊張してしまいます。そして、失敗したら全てが終わるような考えにも至ります。しかし、本当に全てが終わるようなことは世の中ほとんどありません。どんなにうまくいったと思っても、ダメな時はありますし、逆にうまくいかなくても成功することだってあります。まして授業や面接など、人相手なら尚更です。人の感じ方なんて分かりません。運もあるとさえ思っています。そんなもんです。
それよりも、自分はそこに向かって一歩踏み出せたんだということの方が重要です。どんな小さいことでも褒めちぎる。私凄い!と肯定しまくる。その上で振り返って更に良いものにしていく。そうしていると、気づいた頃には周りから凄いねと言われるようになるんです。
これは出典不明の聞いた話なので、信憑性はわかりませんが、「ウォルトディズニーがディズニーランドを立ち上げる際、その融資を300回以上断られた」そうです。
その時は「諦めないことが大事」という話の中で聞いたのですが、それより私は、それだけ話したらきっと話し方も最初とはかなり違っていたんじゃないかと思います。(ウォルトが緊張していたかは分かりませんが)始めは真っ白でも、繰り返すうちに質が上がり、たとえ緊張していても上手く話せたりします。そりゃ300回も話したら質も上がりますよね。もちろん、彼の熱意があってこそ続いたのであろうし、また、成し遂げられたのであろうことは言うまでもありませんが。
上手くいかなくても続けていくことで、量が質になっていくと思っています。
緊張するというのは、未知に対峙している証拠です。それだけで素晴らしいと思います。凄いことです。この記事がそんな凄い皆さんの一助となりましたら幸いです。
日本語って難しい言葉なのかな
日本語ってどんなイメージがありますか。
おそらく、ほとんどの日本で生まれ育った方は、日本語を話すことに対して難しさを感じたことはないのではと思います。
私は日本語教師になるまで、日本語について考えたことは全くありませんでした。
中学や高校の国語の時間はとても退屈で、
「未然形・連用形・終止形・連体形・仮定形・命令形」
なんて、意味も分からず覚えていた記憶があります。
「こんなのなんの役に立つんだろう。」とか
「話せるんだからいいじゃん。」とか
それが180度変わったのは、日本語養成講座でした。
講座が始まったばかりのとき、教室に日本語を学んでいる外国人が数名来てくれて、
実際に交流する機会がありました。
そこで、ある方に「『山に登る』と『山を登る』は何が違うんでしょうか。」
と聞かれ、
「あれ、え?」
と、固まってしまったというよりは、稲妻に打たれたような気持ちでした。
ああ、日本で生まれ育ったからといって、日本語を教えられるわけじゃないんだと痛感した瞬間でした。
「日本語を知らない人に教えるため」の日本語教育は、日本の学校で学ぶ国語とは大きく違うんだと、ここで初めて知りました。
(どちらが優れているということではありません。)
日本語教育の日本語は、とても分かりやすく分析されています。
「どうやったら日本語が使えるようになるのか」に特化しているのです。
これは本当に面白い。そして凄い。よく研究されていると思います。
「あいうえお」も書けかった学生も、2年間きっちり勉強すれば(早ければ1年少しで)日本語のコミュニケーションに困ることなく、大学や専門学校に進んでいきます。
もちろん、日本語母語話者のようなレベルに到達するには、相当の時間と努力を要しますし、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」の3種類の文字の存在は学生を苦しめます。
でも、2年勉強すれば、大学で授業を受け、アルバイトをして、生活するくらいにはなります。
最近、街には日本語が話せる外国人が増えてきました。
道を日本語で聞かれることもあります。
そんな方と出会うのは、日本語教師としてはとても嬉しい瞬間です。
(きっと誰かが教えた日本語、まさに役立っている瞬間!!)
さて、日本語って難しいでしょうか。
皆さんは、「山に登る」と「山を登る」の違いがわかりますか??